令和5年8月13日(日)例会に参加して
講座 演題「資料と写真で見る印旛高等学校の歴史」
講師 印西市教育委員会 学芸員 大関枝美子氏
丘の上の学校―印旛高等学校 ~記念碑は語る~
県立印旛高等学校は印西市木下の丘の上、現在の木下交流の杜にあった高校で、
平成22年に閉舎され、印旛明誠高等学校と改称して印西市草深地区に移転した。
そのルーツは今から約110年程前、明治34年に創立された二つの実業学校で
あったと今度教えていただきました。
一つは当時の木下町上町にできた木下町外六ヶ村組合立印西農学校、もう一つは
大杜村にできた同組合立印西女子工業補修学校です。
二つの学校は地場産業の農業や、染色・織物などの工業の担い手を育成し、町の
振興、発展を願い創立されたものでした。同年に成田線木下駅、小林駅などが開
業していることからも、これらの産業は消費地に向けての経済効果も期待された
と推測されます。発祥地の木下上町観音堂近くの駐車場(写真1)と、大森「にし
やわら幼児公園」(写真2)の一角にはそれぞれの学校発祥記念碑が建っています。
二つの学校は組合立から印旛郡立に、そして大正時代には県立に移管され、昭和
5年に合併した。そして、戦後の昭和23年には印旛実業学校から印旛高等学校に
改称されている。それぞれ別々だった校舎が丘の上に統合されたのが昭和39年で、
坂を登った所の貝塚いぶきの木の下に印旛高校の”言魂”か、「至誠」(写真3)の
石碑が見える。
昭和34年、時の皇太子殿下(現上皇様)のご成婚を記念して、その前年にPT
Aが購入していた山林 の内面積約12000㎡(4000坪)の土地に学校植物
園が計画された。場所は現木下万葉公園あたりで、広く一般にも開放し、小中学生
の共同学習の場とし、更に市民のオアシスとするねらいがあった。
当時新聞に採り上げられるなど話題となり見学や視察があった。中でも昭和37
年に秩父宮妃殿下勢津子様が視察にお見えになり、記念にヒマラヤスギを植樹され
ている(写真4)。場所は「ふえあいサポートセンターいんざい」から木下万葉公
園に向う最初の展望台です。傍の印旛高校百周年記念に建てられた石柱にこのこと
が標されている。
この石柱には「ヒマラヤスギ」と共に昭和43年植樹された「貝塚いぶきが」の
名も刻まれている。
「貝塚いぶき」の方は秩父宮殿下の弟君高松宮殿下が植樹されたものだが、他の植
樹記念碑も調べて見ると殿下は実に三度ご来町になり、その都度記念の植樹をされ
ている。以下の通り。
①昭和28年(場所・浦部大六天) 現地視察記念 高松宮殿下お手植えの松
②昭和35年( 々・手賀排水機場)手賀排水機場視察 高松宮殿下お手植えの松
③昭和43年( 々・印旛高校) 高松宮殿下御手植え貝塚いぶき
三基の記念碑の内、②が手賀沼干拓に関したことなので、「手賀沼講座」の野村先生
に教えていただいた「六十年の歩み 手賀沼土地改良区」や、大六天の碑文「手賀沼干
拓発祥の地」を参考にすると、一連の植樹が全て手賀沼干拓事業で繋がった。
それによると、手賀沼沿岸の干拓事業は江戸時代からの念願であったが、干拓すれど
水害により潰滅するという悪循環が続いていた。戦後になって食料増産の必要などから
漸く国営事業となり、大森六軒の利根川との接点に手賀排水機場の建設が進められるな
どし、念願の435haの干拓や耕地整備が完了した
のだった。
①は昭和28年、高松宮殿下が浦部の大六天の展望台から手賀沼を見渡され、干拓の
視察をされた時の記念植樹。この翌年には愈々手賀排水機場の工事が始り、昭和31年
10月に完成している。②は稼働する当時”東洋一”と云われた手賀排水機場を視察さ
れた記念の植樹。そして③は、手賀沼干拓国営事業竣工式が高松宮殿下のご臨場のもと
印旛高校の体育館で挙行された時の記念の植樹です。大六天の「手賀沼干拓発祥の地」
記念碑は③の竣工式の翌年、一連の手賀沼干拓事業の経緯を後世に伝える目的で、殿下
の最初の視察の地である大六天に建てられたものだった。
③の竣工式を行った印旛高校の体育館兼講堂が昭和41年に竣工し、昭和35年に着
工した植物園も同年完成している。干拓事業竣工の式典が新しい印旛高校の体育館で挙
行され、その記念に植物園に植樹をしていただいたことは、当時の学校関係の方々にと
って大変な名誉だったと推察します。
かつての学人達の夢の跡となった丘の上は、青い芝原に覆われた交流の杜となり、歴
史資料館がリニューアル開館している。新しい憩いの場が、学びの場が私たちを迎えて
くれる。 (会員 蓼沼)
参考「六十年の歩み 千葉県手賀沼土地改良区」平成26年版
「印西町石造物 大森地区調査報告書」「同 永治地区調査報告書」